Monday 16 July 2007

She calls herself her own name instead of "I".

Sorry, this time I'll write in Japanese... If I can, I'll try to translate. This article is about self-consciousness and name in Japanese culture.

日本人の成人女性でたまに自分のことを名前で呼ぶ人がいる。仕事場では言わないが、家族や恋人等の親しい人の前では呼ぶ人がいる。男性でそういう風に自分のことを名前で呼ぶ人は私の知っている限りではいない。ここに疑問がある。

幼稚園時代で既に自分のことを名前で呼ぶ男の子はいなかった気がする。一方で、女の子は結構いたように思う。ある女性に尋ねたら、小さい頃には自分のことを名前で呼んでいたが、成長するにしたがって親にやめるようしつけられたのだそうだ。社会的には自分のことを名前で呼ぶのは、恥ずべき行為、とされているらしいことがうかがえる。そもそも言語の機能を考えれば、自分のことを名前で呼ぶと言うのは合理的ではない。

「私」を「私」と呼ばずに、名前で呼ぶというのは、一体どんな感覚なのだろう。それが私にとって他我である限り、永遠に明白ではない。演劇でもって演じてみる場合にのみ疑似体験は可能かもしれないが。そして何故その現象が日本人女性にのみ起こっているのだろうかということも疑問だ。試しに、普段「私」とだけ呼んでいる人に、今後そうしろと命じる場合、強い抵抗感を覚えるのではないかと想像する。またこの現象の起源はいつかと考えてみたら、時代劇で武将や将軍の妻にあたる女性は、私的な場面では自分のことを名前で呼んでいるのを見かける。「ねねは寂しゅうございます」のように。この場合も公の場では「私」に切り替えられている様に思う(詳しく調べたわけではないが)。

日本語には自己と他者とを同時に意味する言葉がいくつか存在する。「自分」「われ」「手前」等が会話限定でそういう使われ方をする。これは、英語等の欧米の言語ではありえないことである。

この現象は何なのだろうか。日本の古い文化の根底に、自我と他我とをごちゃまぜに感じさせるようなものがあり、それが西欧近代哲学の流入ののちも、深いところで残っているということなのだろうか。

以心伝心だとか、空気を読むだとか言う、「他者の気持ちを感じる」という感覚が語られることは多い。「私は私である」という個人主義的な前提とは対立する感覚であろう。言語のレベルで存在しているということは、確実に意識に影響を与えていると予想出来る。

「私とは私だけではなく、他者でもありうる」かのような感覚があるのだろうか。そのような、此岸と彼岸を自由自在に行き来するような感覚が、日本文化の根底に潜んでいるのだろうか。

人間とは何か、意識とは何か、を考える上での一つの鍵のように思う。


**加筆
イヤ待てよ、逆もありうるな。

自我を殺す、謙遜の文化が、そのような自我と他我の境界線を曖昧にするような言葉を存在させているのかもしれない。

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時代劇での使われ方はあてにならないとの指摘を頂きました。確かに、あれはドラマなので、例としては不適切でした。何か資料について詳しい方がいましたら教えて頂ければ有り難いです。

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更に、試論。

自己と他者の境界線が緩くなった先に、次元を越えるような転換、境界線が取り払われるような可能性を考えてみると、自己と他者を二元論的に扱うということには、もしかしたら途轍もない過ちがあるのかもしれないとも思う。

それは自分であり他者でもあるという「人間」という枠組みを越えた「神の領域」を考えることがたまにある。というのも、近年、インターネット技術や携帯電話の発展により、他人が今どこにいるかをGPSによって一瞬に把握し続けることが理論的には可能になっており、またメッセンジャーやskypeによって常時コミュニケーションをし続けられるようになっている中で、自我と他我とが強烈かつ継続的に触れ合い続けることがそれらの境界線を緩めていっているような感覚があるからだ。過去、それらの技術が無かった頃に比べて、人間は境界線を細めているようなことをしているのかもしれない。

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英語で「自我」は「self-consciousness」なのは知ってたのだけど、じゃあ「他我」の訳語は何なのだろう?

検索したけど出ない。「他我 consciousness」で検索したら早くもここが上位に出るほど。

subjectとobject?この二元論的な発想も疑う余地はあるかもしれないな…。

**加筆20:54 on 16
ああ、何で名前が自我形成に影響を与えるんじゃないか、ということの説明が中途半端ですね。

言語は、「ある言葉があるから、その概念、感情を持つことが容易くなる」ということがあると思っている。よく知られている例で言うと、「懐かしい」という言葉は英語で直接に意味する訳語が存在しない。そのような言葉は、日本語話者がそのような感情を皆持ってるから出来たということも言えるのだけれど、私は逆に「懐かしい」という言葉が出来たから、その感情を皆が共有しやすくなったと言えることに注目している。英語話者でもその感情を理解は出来るけれど、言葉がないことで比較すると複雑化するのだと思う。逆に、「identity」という言葉は、日本語では「自己同一性」と訳されているけれど、多くの人はこの訳ではピンと来ないのではないかと思う。それは自己同一性という言葉が根付いていないからだと思うし、一方でidentityという言葉を持ってる人達は用意に想像出来る感覚があると考えている。

すなわち、言葉として存在している、ということを含め、言語のシステムが、思考、感覚、概念理解等をする上で重要な役割を果たしていることが言えるんじゃないかと思っている。

だから、私=自分=あなた、という矛盾しているように思える言葉(実際には機能出来ているので問題はない)を持つということが、その言葉を頭に浮かばせた時に抱く感情が、やはりmyself、yourselfの時のような厳密なものではない、曖昧な感じがあるのではないか。その感情が日本語話者における自我形成と欧米言語話者におけるそれとの間に、微妙な差を生む可能性は考えられるんじゃないかと思っている、

ということ。

「私とは私である」というのではなく、「私すら他人の一人である」みたいな客観視をしているかのような用法が、言語構造に具現化されているということは、大きな意味があるんじゃないかなー。

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