Thursday 9 August 2007

Why had Takuma Nakahira lost words once?

Japanese Photographer Takuma Nakahira

Takuma Nakahira

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sorry, i'll write in japanese this time.

中平卓馬 写真家(ウィキペディア

中平は、私の母校と同じ東京外国語大学スペイン語科を出ている。正直、写真を撮り始めてしばらく経つまで全然興味がなく、母校を同じくすることも知らなかったが、なんだかんだと知識が増えてきた結果、思っていることがある。

中平は、自ら望んで失語症になろうとしたんじゃないかと思う。プロヴォーク時代の「あれぶれぼけ」は、とても意識的な脈絡の中での変化であり、ロシア・アヴァンギャルドの流れを汲んだ1968年の昭和アヴァンギャルドの潮流の一つだと思う。寺山修司とか唐十郎とかの時代。意識的に過去の手法を否定するやり方は、意識的に過去を肯定する方法と、同じ線上にある論理で培われていると気付いて、結局、言語をベースにした論理の中でしかものを見ることが出来なくなっている自分に気付いて、言葉と記憶を欲したのではないかと思う。外国語学習というものが、言語による思考をより堅牢なものにするという、私の実感が根拠なので、信憑性には乏しいが、割とそうじゃないかという確信はある。多分、だから彼は酒を飲んだのだろう。そうする以外に、考えることをやめられなかったのだろう。そして、記憶と言語を無くした(と思い込んだ)彼が、まっさらな状態(のつもり)で在るものを在るままに撮るという、植物図鑑以降の写真術に繋がっているのだと思う。

言語による思考をやめるのは、かなり訓練が必要なことだ。写真にある言葉が写っていた場合、例えばそこに知った言語が写っていれば(あなたなら日本語)、その言葉の意味を意識せず文字の形のみを先に認識するのは不可能に近い。一方、パフラヴィー語で書かれた文章を形より先に意味を認識することも不可能に近い(あなたも私も)。これは極端な例だが、言語を知った人間が、ヴィジュアルだけでのみイメージを頭に入れたいというのは幻想かもしれない。しかし、それを中平はできうる限り求めたのじゃないか。まず、頭の中から言語を消すこと。そして、消し方を酒の他に知らなかったのだろう。同じ言語学習者としてそのように想像している。

あと、植物図鑑と言うならば、水中に入って魚と珊瑚礁と昆布を撮っていただくことで、一貫した論理を見たい。そうでもなければ、彼の作品自体には興味が持てそうにない。

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【訂正】全然気付いていませんでした。意味通らんがんね。

誤:言語をベースにした論理の中でしかものを見ることが出来なくなっている自分に気付いて、言葉と記憶を欲したのではないかと思う。

正:言語をベースにした論理の中でしかものを見ることが出来なくなっている自分に気付いて、言葉と記憶を失うことを欲したのではないかと思う。

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